日本の住宅政策の総括(住宅建設計画法)
日本の住宅政策の総括(住宅建設計画法)
居住水準と三世代同居による建替え、手離れのよい事業、この3つの用語ほど住宅建設計画法の性格をあらわしているものはありません。
居住水準による住宅政策とは、スクラップアンドビルドの政策なのです。当時、建設省は住宅政策を、エンドレスの行政需要とする確固たる政策として、居住水準を持ち出したのです。社会的には、国民の住生活水準を、段階的に引き上げるという建前を説明していました。しかし、当時の建設省住宅局のおかれた環境はもっと緊迫していました。
1950年から始まったGHQに指導された住宅政策は、住宅難の解消でした。非住宅居住、同居、要大修理住宅、狭小過密居住の解消で、その政策は、1世帯1住宅という政策目標の実現で、それは1965年までにほぼ実現されることになっていました。この政策が実現されてしまえば、住宅政策は不用になるという懸念が、住宅局に広がっていました。
住宅局は1965年から本格的に住宅産業の工業化政策を推し進めることにして、それまでの国民の住生活の下支え政策から、民間企業の産業政策に政策の重点を移そうと考えていました。それを政府政策住宅、つまり行政需要によって引っ張ろうと考えていたのです。居住水準として、最低、平均、優良の3段階を設けて、その目標に向けてスクラップアンドビルドを繰り返させていけば需要はエンドレスに作られ、役人主導で、産業を引っ張ることができ、天下りは無限に可能になると考えたのです。
当時の住宅局では、上級職公務員として入省した技術者は、25年経っても課長にしかなれませんでした。住宅局に技術課長のポストは2つしかありませんでした。労働組合の存在しない本省では、技術職は職場を放棄して、技術者の地位を高めてくれというデモンストレーションをやったりしました。新樹会という組織はそのような環境で生まれました。
プレハブ住宅の推進を公営住宅公団住宅、公社住宅として取り組むことが住宅政策の中心に置かれました。消費者中心から、産業中心に移ったと言ってよいと思います。この政策は、当時アメリカのHUD(住宅都市省)が進めていたOBT(オペレイションブレイクスルー)と呼ばれていた工業生産住宅政策を真似たものです。
アメリカではNAHB(全米ホームビルダー協会)は、OBTは地場の住宅建設業者を潰すものになるということで、HUDに対して、真っ向から反対しました。その結果はNAHBの勝利になりましたが、そのこじれた結果で1990年にHUDがPATH(産官学共同のエネルギー政策)を始めるまで、ハードな技術開発でHUDとNAHBの共同事業はできなかったほど、こじれたのです。
住宅産業は、基本的に地場産業でなければならないということを、アメリカの住宅産業は大きな犠牲を払って学んだのでした。しかし、日本では、産業と官僚とが結び付いて国民を騙して実際の価値が販売価格の半分以下のものを住宅金融公庫の融資対象価格として認め、又、住宅公団の分譲価格として業者の利益を保証してきたのです。
日米の住宅政策の違いが、今になってはっきりと現われているのです。結局、国民に価値のない住宅を高く買わせて、それは実は価値のない住宅であるから建て替えなさい、その目標は居住水準の実現であるとして、スクラップアンドビルドにより、GDPを最大にしてきたのです。
今回はこれから会議が始まるのでこれで終わりにして、又、この続きは次回に続けます。
居住水準と三世代同居による建替え、手離れのよい事業、この3つの用語ほど住宅建設計画法の性格をあらわしているものはありません。
居住水準による住宅政策とは、スクラップアンドビルドの政策なのです。当時、建設省は住宅政策を、エンドレスの行政需要とする確固たる政策として、居住水準を持ち出したのです。社会的には、国民の住生活水準を、段階的に引き上げるという建前を説明していました。しかし、当時の建設省住宅局のおかれた環境はもっと緊迫していました。
1950年から始まったGHQに指導された住宅政策は、住宅難の解消でした。非住宅居住、同居、要大修理住宅、狭小過密居住の解消で、その政策は、1世帯1住宅という政策目標の実現で、それは1965年までにほぼ実現されることになっていました。この政策が実現されてしまえば、住宅政策は不用になるという懸念が、住宅局に広がっていました。
住宅局は1965年から本格的に住宅産業の工業化政策を推し進めることにして、それまでの国民の住生活の下支え政策から、民間企業の産業政策に政策の重点を移そうと考えていました。それを政府政策住宅、つまり行政需要によって引っ張ろうと考えていたのです。居住水準として、最低、平均、優良の3段階を設けて、その目標に向けてスクラップアンドビルドを繰り返させていけば需要はエンドレスに作られ、役人主導で、産業を引っ張ることができ、天下りは無限に可能になると考えたのです。
当時の住宅局では、上級職公務員として入省した技術者は、25年経っても課長にしかなれませんでした。住宅局に技術課長のポストは2つしかありませんでした。労働組合の存在しない本省では、技術職は職場を放棄して、技術者の地位を高めてくれというデモンストレーションをやったりしました。新樹会という組織はそのような環境で生まれました。
プレハブ住宅の推進を公営住宅公団住宅、公社住宅として取り組むことが住宅政策の中心に置かれました。消費者中心から、産業中心に移ったと言ってよいと思います。この政策は、当時アメリカのHUD(住宅都市省)が進めていたOBT(オペレイションブレイクスルー)と呼ばれていた工業生産住宅政策を真似たものです。
アメリカではNAHB(全米ホームビルダー協会)は、OBTは地場の住宅建設業者を潰すものになるということで、HUDに対して、真っ向から反対しました。その結果はNAHBの勝利になりましたが、そのこじれた結果で1990年にHUDがPATH(産官学共同のエネルギー政策)を始めるまで、ハードな技術開発でHUDとNAHBの共同事業はできなかったほど、こじれたのです。
住宅産業は、基本的に地場産業でなければならないということを、アメリカの住宅産業は大きな犠牲を払って学んだのでした。しかし、日本では、産業と官僚とが結び付いて国民を騙して実際の価値が販売価格の半分以下のものを住宅金融公庫の融資対象価格として認め、又、住宅公団の分譲価格として業者の利益を保証してきたのです。
日米の住宅政策の違いが、今になってはっきりと現われているのです。結局、国民に価値のない住宅を高く買わせて、それは実は価値のない住宅であるから建て替えなさい、その目標は居住水準の実現であるとして、スクラップアンドビルドにより、GDPを最大にしてきたのです。
今回はこれから会議が始まるのでこれで終わりにして、又、この続きは次回に続けます。

